【2011/04/04】 出発

 地震、そして津波の残した爪痕は想像を遥かに超えるものでした。

 報道でみるような車の残骸や破壊された工場など津波の破壊力には驚くばかり。編みかけの毛糸の靴下、子どもが遊ぶオモチャ、お茶碗やお箸など、津波が襲った時刻で時が固定されたまま残されていました。

 圧倒され、心を痛め、呆然と立ち尽くす我々の前で、被災者の方が力強く生き抜いている姿が印象的でした。瓦礫だらけの道をバランスを崩しながらも自転車で往来し、散乱したものを黙々と片付けていらっしゃいました。綺麗な車で乗り付けた我々が申し訳なくなるほど、現地の方は本当に頑張っておられました。

 我々が「生涯忘れられない光景を目の当たりにした」と言うのは簡単ですが、あれが被災した方にとっては今も今後も続く現実です。復興の長い道のりの中で細くても息の長い支援を続けていかなければならない。今回のプロジェクトの意味はおそらく「焼け石に水」であったと思い知る事であったと思います。

 穏やかな瀬戸内海に恵まれ、地震や放射能汚染からも免れた広島が日本の復興の旗振りになることが、今後の我々に課せられた役目であり、今回のようにチームが団結した時に発揮する大きな力をもってすればきっと大丈夫と信じたい。

 「信じることの力」が本当に試されるのはこれからです。是非継続して行きましょう。

 いつかあの光景が誰にとっても遠い昔の記憶になることを願ってやみません。(小坂)

 東北マツダ多賀城店近郊を実際に見て、津波の威力の大きさ、被害の大きさに言葉もでませんでした。かろうじて残った民家の人が家の周りを黙々と片付けている姿を見た時には涙が出そうになり、私達の持ってきた物資が少しでも役に立てれば、と願いました。(三石)

 実際に被災地を見ると、そのすごさに呆然とするのみでした。とても被災地の方々に頑張れとは、言えない気持ちになりました。(新井)

 車両や物資を届けることが本当に正しい支援なのか不安だった中、宮城県庁の担当者の方が我々に感謝の気持ちを述べ、深々と頭を下げられたのが印象的でした。

 支援を考える時、どのようにすればいいのか分からないことがありますが、被災地のことを真剣に考えた結果なら必ずどこかで喜んでくれる人がいるので、私は今後もどういう形であれ支援を続けていきます。(渡邉)

 帰る場所が在り待っていてくれる人が居る事、当たり前の日常が幸せだと気付かされました。今回の壮大なプロジェクトを企画し全社員一丸となって達成出来た事、そしてその中の一社員として参加させて頂けた事を大変誇りに思い皆様に感謝致します。

(瀬尾)

 実際に現地に入ってみると、仙台の街わずか4キロ先は、津波の被害で信じられない光景でした。

 しかし、東北までの道中、自衛隊・警察・消防・輸送タンクローリーなど、全国からの支援を多く見て、日本が一丸となり頑張っている姿に感動しました。

 震災から時間が経過する毎に報道も減ってくるとは思いますが、今回のこの気持ちを忘れることなく支援し続けていければと思います。(野村)

 テレビでは、見たことのない光景を目の当たりにし、いままで通り仕事や生活が出来ていることが当たり前じゃないことを痛感しました。

 今、私に出きる事を精一杯続けて行きたいと思います。(須本)

 初めに訪問した宮城県庁では、担当の方々が今にも泣き出しそうな顔で挨拶、お礼の言葉を頂いた時には、本当に来て良かったと感じ忘れることはできません。

 実際に支援物資は各地から集まって来ているが、その物資を運ぶ車両が絶対的に不足しているとのことでした。

 その車両を遠い広島から自分たちの手で運んできたことに感動、感謝されていました。

 また実際に被災した店舗にも訪問させて頂きました。

 メンバー一同現場を目の当たりにした瞬間、言葉をなくしました。

 唖然とした、というよりも呆然としたという表現のほうが正確ではないでしょうか。

 車道はきれいに片付けられて、車が通行できるようにされていました。

 しかし、中央分離帯に目を向けると横転した車両が片付ける人のいないまま置かれている。

 歩道には車両や瓦礫の山が残っている。

 そんな光景が宮城県庁から30分程度走ったところで各所に見受けられました。

 震災、大津波の爪痕を感じざるを得ない光景でした。

 今、自分に出来ることは何か、今、自分がすべきことは何か、この光景を目の当たりにした経験を店舗に帰ってどうやって店舗で留守を守ってくれている皆さんに還元していくべきかを考え始めた日でもありました。

 自分が普通に生活できている、自分がこの場で生きていることに幸せを感じました。(川崎)